誰がカントリー・ミュージックを定義するのか
なぜ Beyoncé はナッシュビルの門をくぐれなかったのか?隔離政策と歴史修正主義を考える
イントロダクション
2024年、Beyoncé が発表した『Cowboy Carter』は、世界中の音楽愛好家から熱狂をもって迎えられた。バンジョーやフィドル、そして黒人音楽の歴史といったカントリーのルーツを、かつてないスケールと深度で掘り下げた記念碑的作品だからだ。先行シングル「TEXAS HOLD ’EM」は Billboard Country Chart で初登場1位を記録し、その後、黒人女性初となる連続首位の偉業も成し遂げた。
しかし、ナッシュビルの城壁は厚かった。カントリー業界で最も権威あるカントリー・ミュージック協会賞(CMA)において、このアルバムはまさかの全部門落選となったのだ。世界的なスターがカントリーの歴史へこれほどの愛を捧げてもなお、ナッシュビルが門を開くことはなかった。
では、グラミー賞(Recording Academy)はこの「異物」をどう扱ったか?表面的には彼女をカントリー部門に迎え入れたように見える。だが、我々は忘れてはならない。グラミーには審査委員会(Screening Committee)という、アーティストのジャンルを恣意的に振り分ける非公開の検問所が存在することを。 時計の針を2022年に戻そう。Kacey Musgraves の『Star-Crossed』が、本人とレーベルの意向を無視する形で、この委員会によってカントリー部門からポップス部門へと「強制移送」された事件を記憶しているだろうか? 彼女の音楽にはペダル・スティールが鳴り響いていたにもかかわらず、「現代的すぎる(=カントリーの純血を守れない)」という不明瞭な理由で、その資格を剥奪されたのだ。その一方で、打ち込みのビートに合わせて歌っているだけの男性歌手たちは、今日も安住の地としてカントリー部門に留まり続けている。
グラミー賞は近年、カントリー部門の定義厳格化を進めているが、この実情は音楽的な品質管理からは程遠い。彼らは「再編」という名の実力行使によって、プログレッシブな女性、有色人種、そしてクロスオーバーを“外部からの侵入者”と定義し、保守的な白人男性主体の産業構造(エコシステム)を死守しようとしているのではないだろうか?
隔離された「正統」、漂白された「本流」
そもそも「カントリー」は自然発生的な民族音楽ではない。それは1920年代、レコード会社の会議室で発明されたマーケティング用語だ。当時、業界は南部の労働者階級の音楽をパッケージ化する際、白人の演奏を「ヒルビリー」(後のカントリー)、黒人の演奏を「レース・レコード」と明確に区分けした。音楽的にはバンジョー(アフリカ由来)とフィドル(欧州由来)が密接に絡み合っていたにもかかわらず、産業の都合で人種的な境界線が引かれた。それが、このジャンルの「原罪」である。
時計の針を進めよう。この「境界線」の管理は、21世紀に入ってより巧妙かつ陰湿な形へと進化した。その決定的な転換点が、2009年のグラミー賞における「アメリカーナ(Americana)部門」の新設である。
表向き、それはルーツ・ミュージックの多様性を祝福する新しい器として歓迎された。だが、15年が経過した今、その実態は「隔離病棟」と呼ぶに近い。 現在のグラミー賞のカントリー部門を見渡してみてほしい。そこに並ぶのは、ナッシュビルのヒット製造機(Music Row)によって生産された、ドラムマシンとオートチューンで武装した「ポップ・スター」たちだ。彼らの音楽は、ラジオ局のプレイリストに乗るために最適化されている。
では、Hank Williams や Waylon Jennings の血統を継ぐ、土の匂いのするソングライターたちはどこへ行ったのか? Jason Isbell や Sturgill Simpson といった、現代で最も「カントリーらしい」音を鳴らすアウトローたちは、カントリー部門にはいない。彼らはナッシュビルの商業主義に迎合しなかったがゆえに、「アメリカーナ」という名の居留地へ追いやられたのだ。
皮肉なことに、今や「本物のカントリー」を聴きたければ、カントリー部門ではなくアメリカーナ部門を探さなければならない。カントリー部門は、もはや「カントリー風の意匠を借りた産業ポップス」を守るための聖域と化している。そして、この聖域の「純潔」を守るためにこそ、異分子を排除するシステムが必要とされるのだ。
ラジオという聖域、あるいは「トマト・ゲート」の亡霊
なぜ、ナッシュビルとグラミーは、これほど頑なに「純血」を守ろうとするのか? その答えは、音楽理論の中ではなく、「ラジオ」という旧来のメディア構造の中にある。
ストリーミングが覇権を握った現代においても、カントリーというジャンルだけは、依然として地上波ラジオ(country radio)が絶対的な権力を持っている。地方のインターステート・ハイウェイを走る保守層にとって、ラジオから流れる音楽は生活のBGMであり、そこには安心感が求められる。 ラジオ局のプログラマーたちが最も恐れるのは、リスナーが不快感を感じてチャンネルを変えることだ。彼らにとって、複雑な社会問題を歌うプロテスト・ソングや、ジャンルを撹乱する実験的なサウンドは「ノイズ」でしかない。彼らが求めているのは、ビールとトラックと失恋について歌う、耳馴染みの良い白人男性の歌声だけなのだ。
この歪な構造を象徴する事件がある。2015年、ある有力なラジオ・コンサルタントが言い放った「トマト・ゲート(Tomato-gate)」発言だ。「聴取率を上げたければ女性歌手を減らせ。サラダで言えば男がレタス(主役)で、女はトマト(彩り)でいい」。 あれから10年。Kacey Musgraves が排除され、Beyoncé が冷遇される現状を見れば、この「トマト理論」がいまだに業界のOSとして稼働していることは明らかだ。
そして何より、カントリーは分断された合衆国において、白人保守層にとっての数少ない「政治的なセーフスペース」として機能している。 Jason Isbell のように銃規制や人種平等を訴えるアーティストや、Beyoncé のように黒人の歴史を突きつける存在を「カントリーの顔」として認めることは、この安全地帯を脅かす行為に他ならない。
グラミー賞における「再編」や「隔離」は、単なる事務手続きではない。それは、変化するアメリカの現実から、この「古き良き(白人の)アメリカ」という幻想の商品価値を守るための、必死の防衛戦なのだ。
歴史修正主義としての「トラディショナル」と「コンテンポラリー」
さらに不穏な動きがある。アメリカーナへの隔離だけでは飽き足らず、グラミー賞と業界の一部では今、カントリー部門内部において「トラディショナル(伝統)」と「コンテンポラリー(現代)」という区分けを導入しようとする議論が進んでいる。一見、これはスタイルの多様性を整理するための親切な分類に見えるかもしれない。しかし、我々はこの手口を知っている。かつてR&B部門において、黒人アーティストの音楽を「アーバン・コンテンポラリー」として本流から切り離し、あるいは「トラディショナルR&B」として懐メロ枠に押し込めることで、メインストリーム(ポップス部門)への侵入を阻んだのと同じ「分割統治」の手法だからだ。
もしこの区分けがカントリーで本格化すれば、何が起きるか?ナッシュビルの産業ポップスだけが「コンテンポラリー・カントリー(=現代の正統なカントリー)」として定義され、ラジオで流れ続ける。一方で、ルーツに忠実な音楽や、Beyoncéのように歴史を掘り下げる試みは「トラディショナル」という名の博物館(あるいは保護区)へと分類されるだろう。これは単なるジャンル分けではない。「歴史修正主義」だ。現在進行形で生きているルーツ音楽を「過去の遺物(トラディショナル)」として処理し、商業主義に染まったポップスだけを「現在のカントリー」として正当化する。そうやって、「誰がカントリーの未来を担うのか」という定義権を、構造的に簒奪しようとしているのだ。このグロテスクな現実を直視しなければならない。
「カントリー」の看板を奪還せよ
ナッシュビルが築いた城壁は高い。彼らは「アメリカーナ」という美しい名のついた居留地を用意し、そこに本物のソングライターたちを押し込めることで、メインストリームの純化に成功したかに見える。「もう諦めよう。アメリカーナこそが真の聖地だ」。そう言って背を向けるのは簡単だ。しかし、私たちはその誘惑に抗わなければならない。
なぜなら、アメリカーナという箱庭に逃げ込んだ未来、私たちは敗北するからだ。メインストリームのラジオしか聴かない層から、ルーツ・ミュージックの真髄を奪うことになる。そして何より、商業的な後ろ盾を持たないアメリカーナは、巨大資本に守られた「産業カントリー」よりも先に、静かに息絶えてしまうかもしれない。 だからこそ、私たちはあくまで「カントリー」という名前を巡って闘わなければならないのだ。Beyoncé も、Jason Isbell も、Kacey Musgraves も、ゲストや別枠ではなく、正当な「カントリー・アーティスト」としてあのセンター・ステージに立つ権利がある。
未来はどうなるだろうか。おそらく、この分断すらも資本主義は飲み込んでいく。 ポップ・カルチャーが多様性やクィア文化を受け入れれば受け入れるほど、その対極にある「保守的なカントリー」は、政治的なアイデンティティ商品として輝きを増し、生き残るだろう。皮肉なことに、分断こそが金になるのだ。
だが、この「資本の論理」をハックする隙間はある。 ここで、海の向こうへ目を向けてみたい。イギリスでは今、カントリー・ミュージックがかつてない盛り上がりを見せている(『C2C: Country to Country』フェスティバルの熱狂ぶりはどうだ)。そこでは、アメリカ特有の「赤か青か」という政治的な踏み絵なしに、純粋に音楽としてのカントリーが愛されている。私たち日本のリスナーも同様だ。
私たち「外部者」には、ナッシュビルの政治力学を無視して、良い音楽をフラットに評価できる特権がある。私たちが、アメリカーナという隔離病棟のタグを無視し、Sturgill Simpson を「最高のカントリー歌手」として語り続けること。Beyoncé のバンジョーを「正統な歴史」としてプレイリストに加えること。 そうやって、外側から既成事実を積み上げていくことが、いつかナッシュビルの強固な城壁を内側から食い破る力になるはずだ。
「カントリー」という言葉は、特定の産業や政治団体の所有物ではない。それは泥と汗、そして抵抗の歴史そのものだ。 だからこそ、その名前を彼らに明け渡してはならない。壁の向こうへ追放された魂たちを、もう一度「カントリー」のど真ん中へと連れ戻すために。

